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セーナー苑に勤めた十年間

山本トモ子
昭和五十年代、ノーマライゼーション・インテグレーションという言葉が声高に世の中をめぐり始めたころ、私はセーナー苑授産部手工芸班ですごしました。
セーナー苑の存在を、授産部を、そして手工芸班の人々の姿を、広く人々に認識してもらおうと「はた織」に取り組みました。
「船峅織」を生み育てるべく、若い先生方や花生の皆々と張りきって毎日をすごしました。
今では二十年キャリアのKさん、Aさんを中心に「はた織り」の音は、現在も顕在に薬師の峰に響き、有磯の海にとどいていることをとてもうれしく感謝いたしています。
当時五六豪雪等、大沢野名物の雪嵐に毎朝二杉からマイクロバスをおりて歩きました。苑に着くのは十時すぎで、地元の職員の方々や花生は、もう一仕事終わった所でした「先生!なにしとったかけ」の声に肩身のせまい思いをしましたが、すばらしい自然の中ですごした十年余りがなつかしく蘇ってきます。
創設期の基礎が出来た後の十年をセーナー苑ですごし、退職してはや十年が過ぎようとしています。
三十周年を迎え二十一世紀に大きく発展されるセーナー苑の皆さんにエールを送ります。

 

セーナー苑は私の原点

安藤邦章
私が富山でお世話になったのは、昭和四十六年から四十九年という短い期間でしたが、今も私を支えるパワーの原点は、セーナー苑で働いたあの三年間にあります。
当時は苑の敷地内に農家が数軒あり、私はそのうちの一軒を職員寮として借り生活をしていました。時々寝過ぎてしまい、児童棟の康夫君や郁夫君が窓をたたいて起こしにきてくれたこともありました。
セーナー苑での強烈な思い出は、お正月帰省も終わり、他県から子供さんを苑に連れてみえたが、別れる時に泣いて車を追いかけた子供を自分が制止した時のことです。小さいうちから親元を離れて施設の暮らしをすることが、本当に本人にとってプラスになるのだろうかという疑問が、そのときから私自身の課題となって残りました。
私は現在、岐阜県にある更生施設「羽島学園」で働いています。適所班やグループホームなど地域生活そのものの援助が現課題となっています。

 

昔のことを少し

志摩将壽
私が苑を初めて訪れた二十五年前は、全国的に施設の子供達の教育権への関心が高まり、私の仕事もその取り組みから始まりました。
義務教育の免除を猶予に切替え、やがて施設訪問教員の派遣という形の学校教育が始まり、そして地元小中学校の特殊学級分教室を経て、昭和五十四年の養護学校義務化に伴って、苑にも立派な学校が設置されました。その間、施設の療育と学校教育のあり方が常に問われて来ました。このことは、家族の関わり方を含めて、今後も考究されていくことと思います。
目まぐるしく変動する現代では、五年前に去った私などは昔の人のはずですが、今も変らず迎えてくれる花生の笑顔は、私の大きな財産だと感謝しています。

 

私の思い出

小芝隆
私は大学を卒業してすぐ一年間だけでしたが、セーナー苑でお世話になりました。その頃に出会ったのが、熊本県にある重症心身障害児施設の平ちゃんが書いた次の詩です。

 

お母さんはときどきごめんなさいねという。
なんでときいたら、ぼくをこんな体にしてしまったという。
お母さんそんなにきにしなくてもいいよ。
お母さんがうんでくれなかったら、うれしいこともたのしいこともなんにもなかったはすだもん。

 

数えられることばかりの多い一年でした。今は、保育所や障害をもつ人達の施設で働く保母や幼稚園教諭の養成に関わる仕事をしています。
創立三十周年にあたりお祝いを申し上げるとともに、私自身も心を新たにして、この平ちゃんの心のわかる保母を一人でも多く送り出していきたいと思っております。

 

 

 

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